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公山城は、熊津時代(475~538)に百済の王宮であった山城であり、錦江(クムガン)などの地形を最大限に利用して築造されている。発掘調査の結果、王宮跡や王宮付属施設跡、百済時代の土城などが見つかっている。
宋山里古墳群は、熊津時代の百済王陵群であり、7基の古墳が整備されている。そのうち、武寧王陵は盗掘されていない完全な状態で発掘され、御陵の主と築造時代(525)が確認できた非常に珍しいケースである。
韓国の伝統的な建築物の特徴として、屋根の線が美しく、建物全体から自然な美しさが漂っているということがよく挙げられる。また、綱をそっと垂らしたような自然な曲線を描く大棟や、軒の先端をかすかに上に上げた降棟と隅棟の形は、女性のポソン(靴下)のつま先のラインに比えられる。細い田舎道を通らねばならないが、公州韓屋村には家族向け宿泊棟が集まっていて、韓屋ならではの趣をたっぷり楽しめる。
陵山里古墳群は羅城の外部につくられており、それ以前のような、王室の権威を象徴的に示すために都市の中心に造られた王陵群とは立地条件が変化したことが見て取れる。この遺跡は学術調査が行われる以前に、ほとんど盗掘されてしまっていたが、古墳群の西側の寺院跡から567年に制作された石製舍利龕と金銅大香炉が出土している。
百済後期の首都だった泗沘は、南西北を錦江に守られ、自然にできた堀の役割を果たしているため、東の部分だけ人工的に防御施設の羅城を設置した。羅城は、東アジアにおいて出現した都市の外郭城の中では最も古いグループに属するものと思われ、都市の防御機能を持つと同時に、都市の内と外を分ける境界としての象徴という役割も果たした。
定林寺址は泗沘都城の中央に位置した寺院跡であり、都心に建てられた寺院としては東アジアで最も古いグループに属するものと推定される。木塔はあまり高く建てられないが、その限界を克服した高さ8.3mの石塔が残されており、発掘調査の結果、金堂跡、講堂跡、僧坊跡などが確認され、「仏・法・僧」という仏教の三宝をすべて備えた、百済ならではの寺院建築の様子を見ることができる。
百済文化の素晴らしさを世界に発信するために、1994年から2010年まで17年間にわたり歴史テーマ型複合観光団地を整備した。百済文化団地の総面積は327万6,000㎡に上り、そこに雄大な百済文化の跡が残っている。百済の王宮である泗沘宮は、三国時代の王宮の姿を初めて再現したものである。また、百済の王室寺院である陵寺は、扶余邑陵山里遺跡を実物大で復元した。
官北里遺跡と扶蘇山城は、泗沘時代(538~660)における百済の王宮関連遺跡であり、発掘調査の結果、大型建物跡など王宮の主要施設とともに、版築により精密に築かれた土城が見つかっている。扶蘇山城は非常時の待避施設として築かれた。
弥勒寺址は東アジア最大の寺院跡と推定されている。弥勒寺は弥勒がこの世に現れ3回の説法を通じて衆生を救う様子を、伽藍をもって具現化している。このような配置は、百済文化の優れた独創性を示している。塔と金堂を3箇所に配置した独特な構造の伽藍配置である。
王宮里遺跡は本来、泗沘時代、首都・扶余の機能を補うための複都の王宮として建設された。発掘調査の結果、長方形の宮墻(城壁)の内部からは王宮関連の様々な施設が確認された。南側には儀礼や政治関連の建物が、北側には後園が配置されていた王宮の内部構造が明らかにされている。