Home | Sitemap | 한국어 | English | 中國語
益山双陵は百済末期の横穴式石室墳で、1963年1月21日に史跡第87号に指定された。2つの封墳があり、東西に約200m離れている。このうち東側にある墓は「大王陵」、西側にある墓は「小王陵」と呼ばれており、内部はいずれも扶余陵山里横穴式石室墳と同じ形式である。このような様式は百済末期の7世紀前半に出現したもので、近くにある弥勒寺址が百済武王のときに創建されたことを考えると、武王と王妃の墓である可能性が高いとされる。
王宮里遺跡は本来、泗沘時代、首都・扶余の機能を補うための複都の王宮として建設された。発掘調査の結果、長方形の宮墻(城壁)の内部からは王宮関連の様々な施設が確認された。南側には儀礼や政治関連の建物が、北側には後園が配置されていた王宮の内部構造が明らかにされている。
益山は古くから宝石の町として有名で、こうした地域的特色を活かしてつくられたのが宝石博物館である。11万点以上の珍しい宝石の原石などを所蔵している世界レベルの博物館であり、地質時代の歴史が一目でわかる化石展示館には、時代別の様々な化石や翼竜、首長竜、実物大の骨格恐竜などが展示されている。
弥勒寺趾は東アジア最大の寺院跡と推定されている。弥勒寺は弥勒がこの世に現れ3回の説法を通じて衆生を救う様子を、伽藍をもって具現化している。このような配置は、百済文化の優れた独創性を示している。塔と金堂を3箇所に配置した独特な構造の伽藍配置である。