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益山

コース

コース:刑務所セット場-笠店里古墳-熊浦津(コムゲナル)-崇林寺-弥勒寺址-宝石博物館-王宮里遺跡-古都里石仏立像-薯童公園/馬韓館-益山双陵

Introduce

  • 1 Filming Site
    刑務所セット場

    聖堂面瓦草里聖堂小学校分校跡地に作られた韓国唯一の映画撮影用刑務所セット。ここで映画『ホリデイ』の臨場感あふれる刑務所のシーンが撮影されたほか、ドラマ『IRIS-アイリス-』、映画『7番房の奇跡』『インサイダーズ/内部者たち』などでも使われた。

  • 2 Ancient Tombs in Ipjeom-ri
    笠店里古墳

    益山市熊浦面笠店里セトマウルの裏山に造られた百済時代の古墳群で、史跡第347号に指定されている。1986年2月に偶然発見され、金銅製冠帽などが出土した。同年に発掘調査が行われ、古墳の詳細が明らかになった。この地域では計8基の墓の調査が行われ、多くの重要な遺物が見つかった。

  • 3 Gomgaenaru Ferry
    熊浦津(コムゲナル)

    西海落照5選の一つとされるのが、熊浦津(コムゲナル)の日没である。ここでは、韓国で唯一川に日が沈む光景が眺められる。広い錦江の向こうに沈む夕陽を背景にした冬の渡り鳥の群舞は、美の極みである。近くの熊浦大橋から眺める錦江、落照、葦、渡り鳥は、見る人の嘆声を誘う。

  • 4 Sungnimsa Temple
    崇林寺

    崇林寺は、新羅景徳王(742~764)のときに真表律師が金山寺と共に創建したという説があり、「益山誌」には高麗忠穆王元年(1345年)乙酉年に行如禅師が再建したと記されている。 益山地域を代表する寺院で、現在、銘文瓦が保管されている。朝鮮時代、壬辰倭乱(文禄の役)で焼失して普光殿だけが残ったが、その後1697年(粛宗23年)に雨花楼と霊源殿を建て、後に羅漢殿を設けた。そして、1987年に住職として赴任した智光僧侶が梵鐘閣、山神閣、一柱門寮舎の安心堂、解脱橋、洗心橋を新たに造って現在に至る。

  • 5 Mireuksa Temple Site
    弥勒寺趾

    弥勒寺趾は東アジア最大の寺院跡と推定されている。
    弥勒寺は弥勒がこの世に現れ3回の説法を通じて衆生を救う様子を、伽藍をもって具現化している。このような配置は、百済文化の優れた独創性を示している。塔と金堂を3箇所に配置した独特な構造の伽藍配置である。

  • 6 Jewelry Museum
    宝石博物館

    益山は古くから宝石の町として有名で、こうした地域的特色を活かしてつくられたのが宝石博物館である。11万点以上の珍しい宝石の原石などを所蔵している世界レベルの博物館であり、地質時代の歴史が一目でわかる化石展示館には、時代別の様々な化石や翼竜、首長竜、実物大の骨格恐竜などが展示されている。

  • 7 Archaeological Site in Wanggung-ri
    王宮里遺跡

    王宮里遺跡は本来、泗沘時代、首都・扶余の機能を補うための複都の王宮として建設された。
    発掘調査の結果、長方形の宮墻(城壁)の内部からは王宮関連の様々な施設が確認された。南側には儀礼や政治関連の建物が、北側には後園が配置されていた王宮の内部構造が明らかにされている。

  • 8 Godo-ri Standing Stone Buddha
    古都里石仏立像

    益山市金馬面東古都里から南へ10里(約3.9㎞)ほど離れた野原に、金馬面の南に向かって流れる玉龍川を挟み、東西に約200m離れて向かい合って立つ2基の石人像がある。これは「人石」とも呼ばれている。千年の愛の伝説が伝わるこの2基の石人像は、ひとつの石柱に頭部から石座までが彫刻されている。石像の頭の上には高い冠がのせられており、細い目と小さい鼻、細い唇の顔立ちが印象的である。

  • 9 Seodong Park (Mahan Museum)
    薯童公園/馬韓館

    朝鮮半島の形をした金馬貯水池周辺の広さ4万坪の敷地には、彫刻公園とも呼ばれる薯童公園や展望台があり、彫刻公園は薯童・善花立像や十二支神像など98点の彫刻品のほか美しい噴水など見どころが多い。また、約860坪の芝生広場や弥勒広場、水辺の広場、野外ステージなど花や緑に囲まれ、益山の代表的なピクニック場所、デートスポットとして市民に親しまれている。

  • 10 Iksan Twin Tombs
    益山双陵

    益山双陵は百済末期の横穴式石室墳で、1963年1月21日に史跡第87号に指定された。2つの封墳があり、東西に約200m離れている。このうち東側にある墓は「大王陵」、西側にある墓は「小王陵」と呼ばれており、内部はいずれも扶余陵山里横穴式石室墳と同じ形式である。このような様式は百済末期の7世紀前半に出現したもので、近くにある弥勒寺址が百済武王のときに創建されたことを考えると、武王と王妃の墓である可能性が高いとされる。