弥勒寺址は、益山市金馬面の弥勒山(標高430m)の麓に広がる平地にあり、東アジア最大規模の寺域を誇る。百済の寺院としては珍しく『三国遺事』に創建説話が残っている。
百済武王と王妃が獅子寺に向かう途中、龍華山の下の池から弥勒三尊仏が現れたため、王妃の望みどおりこの池を埋めて3カ所に塔と金堂、回廊を建てたという。この説話からわかるのは、弥勒寺が百済の国力を結集した国の中心的寺院であることや、湿地を埋め立てて平地を造成していること、未来仏である弥勒が天から降りて3回にわたって説法し衆生を救済するという仏教経典の内容に即した伽藍配置となっているということである。これは、1974年から23年間行われた考古学的調査でほとんど事実であることが明らかになった。また、寺院の創建時期は武王が在位した7世紀初頭であり、壬辰倭乱(文禄の役)の前後に廃寺となったことがわかった。 弥勒寺は、中門・塔・金堂を一直線に並べる百済の典型的な「1塔1金堂」の伽藍を3棟並置した独特な構造となっている。中央にある中院は、面積や金堂、塔の規模が東院と西院より大きい。
東院、中院、西院は、長い回廊によって区画されてそれぞれ独立した空間となっているが、北側では一棟の大きな講堂とつながっている。つまり、いったん3つの院に区分したものを、一つの講堂によって統合しているのである。講堂とつながった北・東・西回廊址からは、後代に僧房として使用された跡が見つかっている。
百済時代の寺院址の規模は、講堂から中門までが134mであり、幅は東院と西院の外郭を基準にして172mである。
寺院裏の弥勒山からの水流は人工水路として寺院の四方に引かれており、南正面には大きな池を造成した跡がある。また、講堂の北には二つの橋があり、人工水路を渡って裏の後苑に行くことができる。もともと湿地帯であるためとりわけ緻密に排水処理をしており、各院の金堂も特殊な構造によって湿気を防止した。金堂の床に地台石を敷いて、その上に1mほどの高さの礎石を菱形に置き、礎石の上に根太(床を支える木材)を張った跡がある。このように、金堂の床に空間をつくって通気性をよくしたものとみられる。
百済では1塔1金堂の寺院構造をもとに弥勒信仰を具現化し、さらに3塔3金堂という独特な寺院構造で弥勒寺がつくられた。百済の人々は、この弥勒寺を中心として、誰もが平等に生きることを願う弥勒下生の夢を実現しようとした。弥勒寺は、すべての衆生を救おうという切なる願いが反映された、古代の百済の人々の信念の結晶といえる。
もともと弥勒寺には3基の塔があり、中院は木塔、東院と西院は石塔だった。中院の木塔がいつ消失したかはわかっておらず、東院の石塔は発掘当時完全に崩れ落ちて石材が周辺に散乱しており、一部は外部に流出し、修復が不可能な状態だった。一方、西院の石塔は、多くの部分が壊れていたものの東北の側面だけ六層まで残っていた。 1998年の構造安全診断の結果、石塔の安定性などに問題が見つかり、2001年から国立文化財研究所が解体調査と保守整備を進め、2002年からは本格的な学術研究が行われている。
東塔址からは、露盤石と屋蓋石が出土しており、これを西塔との比較をもとにコンピューターで計算して復元したところ、九層塔であったことがわかった。この結論に基づいて1992年、弥勒寺址東院に石塔を復元しており、その全体の高さは24mに上る。現存する新羅の石塔のうち最も高い慶州感恩寺址石塔は13mなので、弥勒寺址石塔はその2倍近いということになる。
一方、2009年、西院の石塔の解体調査の途中で一層の心柱石の上面中央から舎利孔が見つかっており、十字の墨線と石灰で密封した跡も残っていた。舎利荘厳は舎利孔の中に安置されており、舎利壺、金製舎利奉迎記、銀製冠飾、青銅盒など様々な供養品が一度に出土した。なお、舎利奉迎記から、石塔は639年に舎利の安置のために建立されたことが明らかになった。これは、弥勒寺が武王在位中に創建されたという記録を立証する貴重な例である。