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陵山里古墳群は羅城の外部につくられており、それ以前のような、王室の権威を象徴的に示すために都市の中心に造られた王陵群とは立地条件が変化したことが見て取れる。この遺跡は学術調査が行われる以前に、ほとんど盗掘されてしまっていたが、古墳群の西側の寺院跡から567年に制作された石製舍利龕と金銅大香炉が出土している。
百済後期の首都だった泗沘は、南西北を錦江に守られ、自然にできた堀の役割を果たしているため、東の部分だけ人工的に防御施設の羅城を設置した。羅城は、東アジアにおいて出現した都市の外郭城の中では最も古いグループに属するものと思われ、都市の防御機能を持つと同時に、都市の内と外を分ける境界としての象徴という役割も果たした。
国立扶余博物館は、1929年に発足した扶余古跡保存会から始まり、現在まで80年以上に及ぶ歴史を持つ。忠清南道西部地域の先史文化をはじめ、百済のきらびやかな文化を花咲かせた泗沘時期(538~660)の百済文化に関する研究・調査、保存において中枢的な役割を担う百済専門博物館である。
定林寺址は泗沘都城の中央に位置した寺院跡であり、都心に建てられた寺院としては東アジアで最も古いグループに属するものと推定される。木塔はあまり高く建てられないが、その限界を克服した高さ8.3mの石塔が残されており、発掘調査の結果、金堂跡、講堂跡、僧坊跡などが確認され、「仏・法・僧」という仏教の三宝をすべて備えた、百済ならではの寺院建築の様子を見ることができる。
官北里遺跡と扶蘇山城は、泗沘時代(538~660)における百済の王宮関連遺跡であり、発掘調査の結果、大型建物跡など王宮の主要施設とともに、版築により精密に築かれた土城が見つかっている。扶蘇山城は非常時の待避施設として築かれた。
宮南池(史跡第135号)は、善花姫とのラブストーリーで知られる百済武王が作った韓国初の人工池である。王宮の南の離宮にあり、『三国史記』の記録から「宮南池」と呼ばれるようになった。現在の池は1965~67年に復元されたものである。
百済文化の素晴らしさを世界に発信するために、1994年から2010年まで17年間にわたり歴史テーマ型複合観光団地を整備した。百済文化団地の総面積は327万6,000㎡に上り、そこに雄大な百済文化の跡が残っている。百済の王宮である泗沘宮は、三国時代の王宮の姿を初めて再現したものである。また、百済の王室寺院である陵寺は、扶余邑陵山里遺跡を実物大で復元した。
千年の古刹無量寺は、万寿山の麓の忠清南道扶余郡外山面に位置している。新羅文武王のときに梵日国師が創建した寺院で、数回の改修を経て今日に至っている。ここは、国内一の阿弥陀祈祷道場で、四天王門を通ると正面に宝物第356号に指定された無量寺極楽殿が見える。四天王門は無量寺の風情を満喫できる場所で、単層ながらも二階建てに見える極楽殿と五層石塔(宝物第185号)、石灯(宝物第233号)が一列に並び壮観を呈している。また、極楽殿塑造阿弥陀如来三尊坐像(宝物第1565号)も威容を誇っている。